タイタニック漫画「愛し友よ、最期の夜を」解説-1

G&G

2023年7月に発表したグッゲンハイム氏&ジリオ氏の漫画の解説です。

細かいところを解説していくシリーズ記事ですので、先に漫画の方をお読みになって下さいね。

分量が多いので、数ページごとに分けております。

この記事では全22Pの漫画の内、1~5P目の解説をいたします。

1P目

新聞売りの少年

ロンドンの新聞売りの少年の写真をモデルにしています。彼の名前はネッド・パーフェット。この漫画は船上以外の場所はNYが舞台になっているので、タイタニックに詳しい方は混乱させてしまったかも……。
かなり幼く見えますが、当時彼は16歳とのこと。とはいえまだこの時代は今では児童とみなされる年齢の子供たちも労働していました。タイタニックにも従業員としてローティーンの子が何人も乗船しています。
この少年について詳しく調べた方もいますのでよかったらこちらもどうぞ。
6年後、彼は第一次世界大戦で亡くなってしまったそうです……。

号外の新聞

The Evning Starという新聞を参照にしています。(一部配置など入れ替え)
見出しの文言も同じです。この新聞はNYで配られていたものではないかもしれませんが、大きくEXTRA(号外)の印がある新聞は見かけなかったもので……

ホワイトスターライン社に詰め寄る人々

人々が詰め寄っているのは新聞社ではなく、NYのホワイトスターライン社(タイタニック号を所有する会社)です。事故が判明してからは、乗客たちを救助したカルパチア号から無線で生存者の名前が届けられましたが、乗客の親族たちはリストに名前が無くても、希望を捨てずカルパチア号が到着するまで何日も、何度も会社に赴いたそうです。グッゲンハイム夫人もその一人です。

フロレット・セリグマン氏(グッゲンハイム夫人)

フロレット・セリグマン氏。彼女は親戚2人と一緒にホワイトスターライン社に何度も赴いています。彼女が泣き叫んでいたという情報は1912/4/19発行のLeeds Mercuryというイギリスの新聞をソースとしていますが、アメリカの新聞であるThe times dispatchは彼女は冷静だったと書いてもいます。状況が状況ですから、日や時間によって精神状態が違っていた可能性もありますが、イギリスの新聞が大げさに書いていた可能性もあります。
彼女は財布のひもが固すぎるタイプ、反対にグッゲンハイム氏はゆるゆるなタイプでした。どちらも両極端で、彼女は大金持ちにも関わらず、ホテルマンなどへ払うべきチップも渋るほどでした。グッゲンハイム氏はグッゲンハイム氏で、愛人にぽいぽい高価なプレゼントを贈るような人です(実はジリオ氏を雇っているのもめちゃくちゃな贅沢です。この時代はそもそも男性の使用人がすでに高級品で、秘書となると更にお金がかかります)。愛情面だけでなく、いろんな面で性格的に合わない夫婦だったのだと思います。

いつも帰ってこないグッゲンハイム氏

グッゲンハイム氏は、晩年はNYに妻子を置いてパリで仕事をしていました(会社の支社がパリにあった)。そのため彼はアメリカには年に数回だけ帰ってくるような状況で、乗船記録等見るに、夫婦が最後に顔を合わせたのはおそらく1912年の1月、タイタニック事故の3か月ほど前だと思われます。
また、グッゲンハイム氏はNY在住の頃から愛人を作っていたので、ここではそういう意味も込めて「いつも帰ってこない」というセリフにしました。
彼は3人の娘の父親であるにも関わらず不倫がやめられず、妻子を悲しませました。娘であるペギー・グッゲンハイム氏がこのあたりのことを自伝にまとめているので詳しくはこちらをどうぞ。「Confessions of an Art Addict(邦題:20世紀の芸術と生きる)
ペギー・グッゲンハイム氏はそれでも父親のことを慕い、ずっと父の影を求めていましたが、妻であるフロレット・セリグマン氏は離婚を望んでいました。

2P目

セントレジス・ホテル

タイタニックにも乗船していた、大富豪J.J.アスター(この沈没事故により死去)が所有するホテルです。グッゲンハイム家の人々は当時このホテルに住んでいました。ホテルに住むと、使用人を直接雇用せずに済むので節約できる……といった理由があるそうです……富豪ならではの発想ですね。セントレジスホテルは世界各地にあり、大阪にもあります。
グッゲンハイム氏に(遠いけど)ゆかりがある! ということで以前ランチを食べに行きましたがとても美味しかったです。2021年にはアスター氏/タイタニックにちなんだ豪華企画もあったそうですが……(こっちは全然庶民には手が届かない値段だった)

エッチェス氏の証言

エッチェス氏のお話は……というかこの漫画は全体的に4/20発行のNYタイムズの記事がもとになっています。この記事の中で、彼はG&Gの最期の様子を語っているのです。タイタニックが沈没したのは4/15午前2:20。生存者を乗せたカルパチア号がNYに到着したのは4/18の夜でした。エッチェス氏は19日の早朝にはセントレジスホテルへ赴いたそうなので、NYに到着後、一晩明けてすぐお話をしに行ったのだと思われます。彼自身もショックを受けている中、いの一番に、担当した乗客の「最後のお世話」をしに行ったんだなと思うと、彼の職業意識の高さにも心打たれます。
しかし彼がホテルのどこでベン・グッゲンハイム氏の話をしたかはちょっとわからないんですよね。内容的にもおそらくダニエル・グッゲンハイム氏の部屋かどっかで話したんじゃないかと思うんですが、ホテル内のカフェ? とか、別の場所だったかも。そして当時の部屋の内装はわからなかったのでおとなしく3D素材を使っています……。

ベンの兄、ダニエル・グッゲンハイム氏

マイヤーを父とするグッゲンハイムファミリーの次男であり、父マイヤー引退後は一家のリーダー的存在でした。
上の兄弟たちとベンジャミンは仕事で揉めることが多かったらしく、その影響かベンジャミンは誰よりも早く家族経営から抜けています。というのも上の兄弟たちは家族の会社を運営して軌道に乗せるまでかなりの苦労をしていたのですが、下の弟、ベンジャミンたちが産まれたころには既に一家は裕福になっていたため、兄弟間で不平等感があったようで、どうもそれが仲たがいの理由の一つみたいです。とはいえビジネスでの争いはありつつ、ベンジャミンの家へ兄弟が赴いたときは手厚く歓迎していたみたいです。
……しかしベンジャミン&フロレットの離婚の一番の障害となったのがグッゲンハイム兄弟でした。度重なる不倫に業を煮やしたフロレットが離婚を決意したころ、グッゲンハイム兄弟が「どうか思いとどまってくれ」と入れ代わり立ち代わり頭を下げに来たそうです(当時は離婚は今よりずっと不名誉なことだったのです)。フロレットはグッゲンハイム家の人々を愛していたので、どうやら情にほだされてしまったようで、最終的に離婚の話は立ち消えになりました。そしてその後もベンジャミンは他の女性と不倫を続けました……(どうしようもない……)。

行方不明のベンジャミン

この時点でベンジャミンが亡くなっているのは確定していましたが、遺体が見つかる可能性は十分に考えられていたのではないかと思われます。そしてこのときすでに、遺体を回収するために派遣されたマッケイベネット号という船が、沈没海域に向かっています。

3P目

4月14日……?

便宜上4/14と設定しましたが、ここからの場面でのグッゲンハイム氏/ジリオ氏/エッチェス氏の会話はフィクションです。エッチェス氏が彼らの衣服の着替えを手伝ったと言う記録や、こういったフランクな会話をしたと言う記録は残っていません。とはいえエッチェス氏はジリオ氏の名前も職業も年齢もバッチリ覚えていたので、船がパニックに陥るより前、航海中からちょっとした会話を交わしていた可能性が高いと思われます。エッチェス氏はベッドルームスチュワードとして、タイタニックの設計士であるトーマス・アンドリュース氏も担当していたのですが、彼の着替えを手伝っていたと明言しているので、G&Gの衣服のお世話も少しはしていたかもしれません。ここではお世話するシーンを通じて3人の人物を紹介したつもりです。

4P目

「タイタニックは実に素晴らしい船だね」

4/20発行のThe Topeka state journalという新聞に基づいています。それによるとグッゲンハイム氏は「タイタニック号は今まで乗った中で最高の船だ」と言ったとされています。しかしこの言葉は別のスチュワード、アルフレッド・テッシンガー氏に伝えられたものだと書かれています。しかしテッシンガー氏は別の部屋を担当していたとはずなので、もしかしたらこの記事自体が捏造や脚色、もしくは何らかの誤解に基づくものかもしれません。が、まあ捏造だったところでこれを漫画に描いたとて彼と言う人物像を損ねることは無いよな……と思いセリフに採用しました。

おそらく船と海が好きだったジリオ氏

ジリオ氏はおそらく船や海が好きな青年でした。学生時代のディベートでは、陸路より海路、陸兵より水兵の暮らしの方が優れているという意見に一票入れています。特に船については「海の旅は楽しい、蒸気船は贅沢で快適」などと言っているので、タイタニックの旅も楽しんでいたのではないかと想像しています。「完璧な船」はそれを受けての創作セリフです。

ジリオ氏の国籍

彼はよく国籍を間違えられていますし、エッチェス氏にも間違えられていますが、実際にはものすごくいろんな国との関わりを持ったイギリス生まれのイギリス人でした。彼の母は公的な記録ではエジプト生まれとなっていますが、彼女の名前はポーランド系ですし、おそらく半生をフランスで過ごし、死後もポーランド人が多く眠る墓地へと埋葬されているため、「エジプト人」とは断言しにくいお方です。父の方も姓こそイタリア系ですが彼についてはほとんど情報がなく、足取りを追うのがかなり困難となっています。
ジリオ氏自身については、1910年にエジプトに滞在した記録があり、フランス語の資格を持っていたことなどから、マルチリンガルであった可能性が結構あります(どこまで習得できたかは定かではありませんが、学校でもラテン語を学んでいたことでしょう)。
彼の兄、長男のリチャードもフランス語が得意で、少なくとも中年期以降はフランスで過ごしています。三男のエドガーも後に送った手紙の中でフランス語の新聞記事について言及しているので、ジリオ家の公用語(?)はもしかしたらフランス語だったのかもしれません。

タイタニックの設備

図書室は二等船客用の施設なので、実際にはジリオ氏がこの部屋を使うことはなかったでしょう。図書室はお手紙などを書く場としても使われていました。タイタニックは郵便汽船でもあるため、多くの手紙を輸送していましたし、船内から手紙を送ることも出来ました。日本人乗客の細野氏も、タイタニックの客室から持ち出した備え付けの便箋に惨事を記録しています。
スカッシュコートとプールも船内にあった施設です。予約して使うことが出来ました。どちらも一等客のみが使える施設です。プールは時間ごとに男性/女性で別れた交代制です。スカッシュコートには専属インストラクターもいたそうです。

(追記:『テニスコート』と表記しているバージョンは完全な誤りです……ご指摘くださったDaveさん、ありがとうございます。なぜかここの説明文まで一緒になって間違えてました……)

彼らがタイタニックに「一番乗り」した背景

実は彼らは最初、タイタニックに乗る予定ではありませんでした。彼らはタイタニックを運営するホワイトスターラインのライバル会社、キュナードラインのルシタニア号に乗るつもりだったのですが、あいにくの修理で欠航。キュナードは別の日程での船を手配しようとしたのですが、グッゲンハイム氏はキュナードが別の船を用意する前に、タイタニックに乗ってアメリカに帰ろうとしていました。
ちなみにルシタニア号も悲劇の船として有名です。こちらは第一次世界大戦中の1915年に、ドイツのUボートの魚雷を受けて沈没します。アメリカの民間人が多数犠牲になったこの事件で、アメリカが第一次世界大戦に参加するようアメリカ国民の機運が高まりました。

5P目

ジリオ氏は水泳が大得意!

雇用主をプールに誘うジリオ氏のエピソードは創作です。実際これくらいフランクだったのだろうか……もう少しお堅い関係だった可能性はまあまああります……。
でも彼が水泳が得意で学校でも一番の記録を出したことは事実です。そしておそらくこのことが、彼の最期の判断にも関わってくるものと思います。彼は蒸気船という最新テクノロジーに信頼が篤かったようだし、水泳も得意だった。このことから、「沈みかけているとはいっても、しばらくは浮いていられるだろう」、「いざ沈んでも僕は泳げるからきっと助かる」と思って船に留まった可能性は十分あります。救命胴衣をつけなかったのも、泳ぎに自信があることが大きかったのではないでしょうか。なにせ彼はまだ23歳です。「死ぬかもしれない」とは考えていても、「死んでもいい」と思っていたとは、個人的にはあまり考えられません。ちなみに兄であるエドガー・ジリオ氏も、後に「水泳の名手であった弟は、公平なチャンスで助かるつもりだっただろう」と推察しています。優先的にボートに乗ることを良しとせず、他の人とも平等の立場でいたかったのだろう、というニュアンスでしょうか。ちょっとこのへん訳するのが難しいのですが、大体そんな感じだと思われます……。

G&Gはいつから行動を共にしているのか?

2人が出会った時期はハッキリとはわかっていませんが、乗船記録から推察するにおそらく1910年の夏だと思われます(このあたりについてはいずれ詳しい記事を書くつもりです)。

1~5Pの解説は以上です。続きの解説はこちらの記事へどうぞ。

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